[PHOTO] 日録
天気も良いので、庭園美術館を散歩していたら梅(だよね)が咲いていた。
(この写真は、コンパクトカメラで撮ったせいもあってちょっと背景のボケがうるさいけど。)
[PHOTO] 新規コレクション展「ようこそ。写真美術館へ!!」
東京都写真美術館で、2005年度に写真美術館に(購入したり寄贈されたりして)加わった作品の展覧会が開催されている。
瀬戸さんの作品などを含め、他にも興味のある写真家の(オリジナル)プリントが観られるということで行ってきた。もとより2005年度に加わった作品ということだけで開かれている展覧会なのでまとまりなどは期待していなかったが、それだけにいろいろな種類の作品(もう写真というよりアートと呼ぶべきものも多数含まれていたが)が展示されているのを観ると、「写真」を「写真」という一言では決っして括ることなどできないという当たり前の感想が浮かんできた。
もちろん、私のお目当ての写真家のプリントを何度もじっくりみて、しっかり勉強させてもらいました。
[PHOTO] 「光と影」展
新規コレクション展に行ったついでに、同時開催されていた「光と影」展も観てきた。
写真芸術の原点である「光と影」をテーマのひとつとして、そのはじまりから、
近年のデジタル写真の台頭によって、より多様性を呈する現在の写真表現まで
をさまざまな観点から検証します。
と案内の中にもあるように、光(とそれの対である影)というものは、それがなければ写真が存在することのできない基本原則のようなものである。
展示から得られたものは、「ソラリゼーションでも何でも単なる技法に頼った作品というのは、その技法が登場した当初はとても新鮮だったかもしれない。しかし時が経てばそれらの技法は普及し陳腐化し何も心に残るものがない単なる歴史的記念碑のようなものになってしまうのだ。」という、これもまた当たり前の感想だった。
[PHOTO] 日本の新進作家vol.5「-地球(ほし)の旅人-」展
これもまた、新規コレクション展のついでに一番プライオリティが低かったのだけれど観てきた。内容は前川貴行、菊池哲男、林 明輝の3名の写真家のいわゆるネイチャーフォトと分類されている作品展。
いわゆるネイチャーフォトと呼ばれる写真にそれほど興味があるわけではないが、結果として本日観た展示の中では一番面白かった。
その面白さというのは…、個々の写真作品についてではない(もちろん、3名の写真家の作品はとても迫力にあふれた作品であった)。
展示を順に観て回っていると、そこに今回の展示作家の一人である菊池氏が御自分の作品についての説明を閲覧者にしていた。その説明を聞いて氏の作品がどのような意図でどのような方法で撮られていったのかがとてもよく理解1できた。しかし、氏の説明は山岳写真の知識のない私にはとても想像のつかない事柄であったし、この説明がなければ、私はおそらく「ふーん、綺麗だねー。」で通り過ぎてしまったであろうことは想像に難くない。このため、何よりも説明を聞いて再認識させられたのは、写真の”曖昧さ”、“伝え難さ(伝わり難さ)”2だった。一見、(他の写真よりもテーマがしっかりしている分)わかり易いと思われるネイチャー写真ですらこのざま3であるから、写真にはこの”曖昧さ”、“伝え難さ(伝わり難さ)”が基本性質として如何に横たわっているかを、写真を撮る人間は常に意識していかなければといけないと再認識した次第4。
[BOOK] 暗闇のレッスン
西井一夫による映像評論集。
この本のある部分を占める映画については、無知な私には全て観たこともないもので全く歯がたたず。しかし写真に関する評論に関しては、他の彼の著作と同様にいろいろ考えさせられ、読み終えた後またすぐに再読してしまった。特に中平卓馬に関する稿はよく書かれていると思う。
私たちが対象を認識する場合、おそらくそれは「視る」、「聴く」、「触れる」、「嗅ぐ」、「味わう」などの五感のうちの複数を動員して得ているはずだ。しかし、写真には「視る」しかとりあえずのとっかかりはない。それだけでは理解できないモノに対しては、当人の経験的な常識というもので補完して認識しているのが常だろう。とすれば、ある写真についての”曖昧さ”加減というのは、その認識者の”経験”の差、つまり育った環境であったり、属している組織での体験などと他者のそれとのズレが表出したものなのだろうか。そして、それがまた撮影者に還元され”他者性”というものを認識することに繋がるのだろうか。。。
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