言葉を支えるリアリティ
今「見続ける涯に火が…」を読んでいる1ページ。その中で「言葉を支えるリアリティ」というフレーズがあった。以下は今日一日そのフレーズを私の心の中で繰り返しているうちに思ったこと。
以前、サンフランシスコに行ったときのこと。サンフランシスコにはアイルランド系のアメリカ人が結構いるようで、その日はおそらく St. Patrick’s Dayだったのだろう。緑一色に装った人々がダウンタウンでパレードをくりひろげていた。その中の一団が英国による北アイルランド占領に反対するデモをやっていた(Brits OUT!みたいなプラカードを掲げていた)。そのことを日本に帰ってから友人のアイルランド系イングランド人に話したら、「あいつらは何もわかっちゃいない。やつらが余計なことをすることで余計話がややこしくなるんだ。」と吐き捨てるように言ったことを思いだした。ここでの”余計なこと”はおそらく米国に住むアイルランド系米国人が北アイルランドのシン・フェイン党を資金面で支えていることを指していると思われる。彼は両親がアイルランド(北アイルランドかは知らない)からイングランドに移住してきたイングランド人(でカトリック)だが、その場では私もそれ以上のことは聞かず彼のその発言の奥にあるものは今でも不明である。しかし、彼がアイルランド系であるという出自を知っていた私はその発言に対し当事者でしか持てない非常なリアリティを感じたものである。
前置きが長くなった。言いたいことは、例えば今ここ戦争から一番遠くにいる日本で「戦争反対」などと発言したとしても単なる一般論にしかならず、「戦争反対」を教条のごとく叫ぶことに何の勇気も気概も必要としない。そこにあるのは当事者意識の欠けた単なる(我々平和ボケした日本人の)「戦争はいけないものだよね」というまるで道徳の時間に習ったことを答案用紙に書くような程度の認識でしかない言葉だということだ。つまりその発言にはその発言者の生命を賭けた2認識というものが存在しない。パレスティナやイラクでそのことを発言するのとはやはりその発言のもつリアリティが異なってくるだろう。ただし、その場合においても昔のなんとか赤軍みたいな連中が現地に押しかけて勝手に自分の主義主張で暴れ回るのとも違う、選択することもできずにどうしようもなくその土地に生まれ逃れることのできない運命に縛られた人々によって発言されてこそ当事者意識も生まれリアリティを持つのではないか?ここで注意したいのは何も「戦争反対」のようなある意味政治的な発言を例として挙げてしまっているがもっと身近なことでもよい。単なる言葉が人の心を打つには当事者意識に依拠するリアリティが必要なのだろうと。
で写真の話である。写真もやはり観る側にとってもリアリティを感じるような写真でなければ何らか(反発でも笑いでもよい)の反応を喚起することはできないのではないか?3では写真のリアリティとは一体何か? 未熟者たる私は今その答を出せない。ただつらつら思うことは、そのフレームに切りとられた被写体に撮影者と写真を観る側が同時代性を感じさせる、単なるデ・ジャブでも共感だけでもない何かが存在するのだろうか。(もうちょっと考えようまた後で。。。)
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