[BOOK] 九つの物語
サリンジャーの「Nine Stories」。巷間言われているようにサリンジャーは短篇が良い。中学生くらいに読んだ記憶のある、「〜シーモア序章」ももう一度読みたくなってきた。グラス家サーガを通して一気に読んでみたい。「ライ麦畑〜」にはあまり感心しなかった僕だけれどサリンジャーの短篇はどれも読み終えたあと、何か心に残るものがある。何が残るのか?についてはあまり深く考えている分けではないけれど。
[BOOK] 声の狩人
開高健のルポ集がでたので久しぶりに彼の作品を読んでみた。彼の作品を読むのは大学時代以来であろうか。本作は1960年頃のイスラエル、ヨーロッパあたりを訪れた時のもの。若いときの作品のためか(もしくは小説ではないためか)、まだまだ彼の作品の特徴と僕が考える話の中で紹介されるちょっとした小話の面白さが少ない感じがする。
ところで、後書き(解説)によると彼の葬儀で司馬遼太郎からの弔辞が「司馬遼太郎が考えたこと」の十四巻に収録されているとのこと。一度読んでみたい。
[BOOK] サイゴンの十字架
こちらの開高健のベトナムに関するルポ集。これらの経験がのちに”闇”シリーズに結実していくのだろう。おすすめ。
(P.32)
キリストが憎んだパリサイ人とは知識人のことだった。(略)おそらくは宗教家も革命家もつねに知識人階級の出身であることからくる近親増悪の衝動ゆえではあるまいか。(略)たがいに自分の知りつくしたと思う匂いを嗅ぐのがいやなのだ。(略)自身の影をまったく読みとらなくてすむ労働者や農民にたいしては、そういう自己との抗争に濾されることのない感情で接することができる。しばしばそれは愛の名で呼ばれるが、実は侮蔑を含むことがある。常にそれはどこかにエキゾチズムの純潔を匂わせている。だから、しばしば容赦ない冷酷を帯びる。
これはよくわかる。(知識を)持つ者はそのこと故に持たざる者に対して優越感に似た感情をもって「愛」を抱く。はたして、対等なもしくは自分より知識・経験・その他を持つ(利害対立)者に「愛」を抱くことができるのか。
(P.186)
アメリカ人の中には時々伝統の慈善(バザー)精神を発揮しているものがいた。(略)町のどろんこの浮浪児を彼らはひろってきて、風呂に入れてやり、一流の店へいって服を作ってやり、一語ずつ辛抱強く英語を教えていく。そしてそのよみがえった浮浪児たちをホテルや一流レストランにつれていって、わが子として扱い、もし給仕や何かがちょっとでも軽侮の表情をその子に対して見せようものなら、大声叱咤して、むりやりにでも態度をあらためさせるのであった。当時私が聞いたところでは、彼らのうちのかなりたくさんの人々はこれらの戦争孤児を養子としてそのままアメリカへ連れて帰っていくとのことであった。(略)ある時知りあいのヴェトナム人の新聞記者が、ちらと光景を一瞥してから、マーティにのグラスに向きなおり、低い口調で、「アメリカ人は善意のために憎まれる。そのことに彼らは気づいていない。彼らの善意を誤解して憎むベトナム人が多い。それがイヤだが、それに気がついていない彼らもイヤだ。むつかしいことだ。」
個人としての善意と現地の人々の利益と背反する利害のもとにベトナムに派遣されてきている現実を周囲は決して分けて見ることはないであろう。特にそれが大きな災禍をもたらす軍隊の一員としてならば。当のアメリカ人たちは自分の利益に背反しない程度に自分たちのできることしているだけなのかもしれないけれど。
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