2006/11/12

2006/11/12

[BOOK] テヘランでロリータを読む

西洋で教育を受け、(おそらく)イランでも裕福なインテリ一家に育った著者がイラン革命の後(西洋から)帰国する。

革命後のイランでは女性(だけではないが)の権利がどんどん狭められゆき、中世に舞い戻ったような閉塞社会になっていく。その中で、禁じられた西洋の小説を読む会を自宅で開く…という話。

自由である限り、自由であることを実感できないと言われるように、なかなか著者のような状況を、頭では理解はできてもなかなか共感しづらいなあとも思う。

昨日まであった”自由”が、次の日から永遠に失なわれることは、とてもやりきれないことであると思うし、悲しい。しかし、実際問題イランの多くの庶民(著者のように裕福でもなく、知的エリートでもない人びと)からみると、イラン革命とはどのようなものだったのだろうか?という疑問も沸く。

本文中で「政治的自由は個人の自由がなくては成り立たないことを理解せずに、政治的自由を求めて闘いつづけているかぎりは、僕らはその権利に値しないんだ。」(魔術師)と。これには私も納得できる。道徳的かそうでないかにかかわず、タブー無しに語ることとのできる個人の自由なしには、政治的自由などはありもしないし、公共の福祉と個人の自由の境界だって決められやしないと思う。

最後に、著者は、

「権利章典にもう一条、想像力を自由に使う権利が加えられていたらと時々空想してみる。真のデモクラシーは、想像の自由なしには、また想像力から生まれた作品をいっさいの制限なしに利用できる権利なしにはありえないと思うようになった。人生をまるごと生きるためには、私的な世界や夢、考え、欲望を公然と表明できる可能性、公の世界と私的な世界の対話が絶えず自由にできる可能性がなくてはならない。」

と述べているが、フィクションを読み・考える自由までも制限されてしまったらやはりやりきれない。

ちなみに、本文にでてくる、著者のよき相談相手となる”魔術師” - 革命後の制限された社会を捨て、隠遁したような生活を送っている - には憧れた。私も誰かにとっての”魔術師”になれるような人物になりたい。

本全体を通して、1章はとても退屈に思えたけれど、その後に続く章を読み進めていくうちにどんどんのめり込んでいった。自由の意味を考えてみる良い機会になったと思う。おすすめ。

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