2006/12/03

2006/12/03

[PHOTO] sunrise

sunrise

[PHOTO] 写真新世紀

今日が最終日だということを思い出し、慌てて東京都写真美術館で開催されている恒例のキヤノン写真新世紀展へ行く。優秀作品の中では、山田いずみさんの「陽子×末代」が良かったかな。撮影者の母を撮った作品。とても妖艶に映っているけれど、どうも主婦の方ではなさそう。もし凡庸な主婦だったらより恐ろしいなと思った。

ただ、今回一番うならされた写真は、佳作の中にあった岩國雅弘さんの「天国と地獄」だった。制作意図は「必死のKILL TIME」とあって??意味不明だけれども、見慣れたはずの動物園の動物が全く想像できないような姿で撮らえていて眺めていて全く飽きることがなかった。

後、優秀賞の作品よりも佳作のブースの方がはるかににぎわっていたことが、何かを語っているような気もした。もちろん、優秀賞より佳作受賞者の方が多いしブックも置いてあるからかもしれないが。また、相変わらず(若い?)女性の作品が多かったし、受賞作品は圧倒的にカラーが多い、ストレート(?)1な写真だけでなくてちょっと加工したようなアート(?)っぽい作品も多かったように思う。

[PHOTO] コラージュとフォトモンタージュ展

新世紀に行ったので、同時に開催されている掲題の展示も観てきた。写真もあまりいじりすぎると、普遍性を失なってしまう。当時は斬新だったのかもしれないけれど、違う時代に生きている自分には、全く興味が持てないなというのが正直な印象。

[BOOK] 決闘写真論

1977年に出版された篠山紀信の写真と中平卓馬による文章からなる本。裏表紙にある二人の写真が(あたり前だが)若い。既に絶版になっているし、文庫もちょっと前(私が写真に興味を持ち出すちょっと前だ)に出たけれど、在庫切れで再刷もされていないため、中古で購入するしかない。しかし、文庫版にしても中古価格が(文庫の元の値段からすれば)すごい値段になっている。というわけで中身を読まずに古本を購入するのは躊躇されたので、図書館から借りてきて読んでみた。結果は、面白い。できれば、文庫版再刷してもらいたいけれど、古本購入してしまうかも。図書館の貸出期間の2週間ではとても何度も読めない。

とりあえず、一度読んだ中で、心に残った部分だけを引用し記しておく。

 P.168~
写真は<作者>たる写真家の意識をつねに裏切り、意識を越えた世界を写真家に
つきつける。この偏差こそ実は写真家にとってかけがえのないたったひとつの
ものなのではなかろうか。つまり写真家は自分が撮影した写真を<再び読む>こ
とを前提にして写真を撮る。この再読という行為が、写真を介して写真家を世
界に結びつけるのだ。そしてこの行為はやはり意識によって、つまり言葉によっ
て成り立つ。当然、写真家は写真の「作者」であるということはできないだろ
う。なぜなら、写真家は作品以前に、やがてでき上がるだろう写真の全てを所
有してはいないのだから。

また、本末の対談の中でも:

篠山:~
自分の生まれた家を撮ったり、育った街を撮ったり、〜(略)〜結果としてで
き上がった写真を見てみると、やっぱり同じなんですよ。〜(略)〜個人的な思
い出はあったけれど、それは写真には出ていない。〜(略)~
中平:~
(略)〜ひとつの被写体に対して、いろいろな思惑で撮るんだけれども、それが
一枚の写真になったときには、読者には伝わらない。〜(略)〜写真には不確定
なところがたくさんある。逆に言えば、私的なものを表現できないところに、
写真というメディアのもつ自由さ、開放性があると思う。〜(略)

何か思い入れをもって写真を撮っても、それを他者に伝えることは、不可能といってもよいくらい非常に難しいことであるのは、この素人の私ですら(いや、素人だからこそ?)思う。また、写真を撮った時と、後からそのプリントを眺めた時の思いが全く異なることが多々あることも、写真をやっている人なら誰でも感じることだろう。それと同じように他者が写真を観たときの感想も個々に異なるから、写真って一言でいうと難しい(って簡単に片づけてはいけないのだろうけど)。そもそも、写真を真剣に観るという行為において、鑑賞者は言葉で説明されない写真というものを自分自身の頭で考え・読むという行為がはさまる分だけ、とても疲労するし、しんどいものだ。(だから、写真展とか行くとつい写真の脇にある言葉で説明されたパネルばかりじっと読んじゃいませんか?へたすると写真そのものを観る前に。)


  1. いわゆるストレート・フォトグラフィーの意味ではありません、為念。↩︎

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